自分の思考回路の複雑さがうまく伝わらなくてよく誤解される。
抽象化して知識の骨格を抜き出したいから質問してるのに
あんまり聞くとませてると思われたり
こんなに話してるのに分からないのかと嫌がられる。
この悩みに共感してくれたのが岡田斗司夫さんだったか。
正直、小学5~6年生の時からみんな間違ってるよなって思い始めてから
自分の周囲の世界だけが最適ではないって気が付いていたかもしれない。
だから中学生からは思考が左翼的な反体制派だったのかもしれないし、
良く言えば、いつも物事を正面5割、斜め5割に見ていたし、
自分だったらどう思うかと、自分にしか出せない言動を目指してきたと思う。
でもその根底にはやっぱり「みんなどうせ同じ意見しか出せないんでしょ?」
っていう、多数派の怠慢への軽蔑と敵対心があった。
だからいらいらして、奇をてらうこともしばしばだったかもしれない。
あ、これが「少数派は声がでかい」ということか笑
小5の時、毎朝クラスの目標を決めるときに
「外で元気に遊ぼう」
「廊下は走らない」
が交互に繰り返されてることに疑問を持ったことが
多数派や自分の周囲に対しての不信感の始まりだった。
思い出したように「掃除はさぼらない」もあったかな。
目標って、より良い学校生活のために立ててるものなのに
外で遊ぶことと、廊下を走らないこと、だけじゃないよなって考えたら
「1日1回ありがとうと言おう」
「係の仕事をしっかりしよう」
とか毎日違う目標って立てられるんだなって思った時、
そこに生まれて初めて周囲とは違う自分がここにいるって感じた。
自分の考えが、発想が、もしかしたら、身の回りをもっとよくできるのかも知れない
そう思った時の自分と自分以外の人の立ち位置違いの感覚は
クラスやグループなどのある程度の人数の集まりになった時、
いつも考える。
たぶん10人いたら1人は天才で、1人はバカ。で残りの8人は普通の人。
それは職場環境でも同じことなんだろうとも思う。
でも最近思うのは、
天才=役に立つ・良い奴・必要な人、
バカ=邪魔・問題児・要らない人
って訳ではないと実感していて、そこは大きな勘違いをしてきたなあと思う
でそんな気づきで中学生になったもので
自己啓発書なるものを中学から読み始めるようになった。
一番最初に読んだのは、
「松岡修造/本気の言葉」だった。
当時はテニスにはまっていたものの、
それなりに悩みもあって表紙にひかれ購入。
で、中学2年になって進学の勉強の悩みや恋や部活や友人関係など
ごく普通の悩みが多くなってきて、自分ひとりでもさばききれないこともあり
「中谷彰宏/君は毎日、生まれ変わっている~セルフ・ヒーリング」
という本を読んだ。
2003年当時、パソコンがまだ家庭にフル普及してなかったし
アマゾンなんてないから中学生の悩みに合う範囲で
理解力にちょうどいい自己啓発書を探すのは少し苦労で。
だいぶ分かりやすい文体だったのが、中谷さんのPHP本だった。
結構概念的な話が多くて
要は気の持ちよう的な、エビデンスなんかない話しばかりが書いてあったけど
「傷は痛いと思ったときに治り始めている」
というフレーズを読んで、身体や心が痛み、苦しむ時は
治っている証拠なんだと思うようになった。
なぜか?と当時考えたんだけど
もし痛みがなかったら、たぶん自分の身体が切れてることに気がつかないまま
死んでしまうよなと思ったし。
(実際、右半身マヒの祖父が鎌で右指を切ってもそのまま草刈りしていたことがあった)
そもそも、傷がついた瞬間に身体が治っていかないとすれば、
身体が身体を守ろうとしてくれていないことになって。
自分で自分を死に急がせることに対して積極的になってるということで。
生き物って、自分で自分を殺すように生きることってあるのかな、、、。
それは絶対ないよな。と
痛みを感じることは、痛みを感じない状況よりも
確かに人がより良く生きるために、最善を尽くして考えた結果で
だから「痛み=治癒の開始=そこの時点からより良く生きること」、
に繋がるとその時確信した。
ホメオパシー(同種療法)に対しては、
その痛み=症状が、治癒のために必須のものであって、
同種療法=症状を引き起こすことで治癒させる(自分で治癒する)
という考え方が、中学生の時から腑に落ちていた自分の考え方と一緒で。
そこに自分の本当に目指したい、真に人のためになる活動のエッセンスが詰まっているように思えた。
だからホメオパシーからは
痛みや苦しみや悲しみという、人が受け入れがたい現実感覚に対しての
必要性と意義を十分に説明し、証明できる知恵と技術を学びたいと思っている。
現代医学のほとんどを占めるアロパシー(異種・逆症療法)は
薬やワクチンの話を抜きにしても、
根本的には生き物の命のためのものではないし
より良く人が生きるようにするためのものではないから。
ここを看護師としてまじめにやることに、あまり意義が感じられなくなってきている最近。
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