鏡開きで思う天皇と武道

1月9日は道場の鏡開きだった。
道場の鏡開きは、初参加だったんだけど、いろいろな流派の人が来て、藁を切ったり、形を披露したり、そんな感じ。
館長の力もあって、市長さんや議員さんも数名来てたけども、普通はそういう人らは来ない。

そもそも、「鏡開き」って何?って話だけど、
「鏡餅を割って食べる」のが、鏡(丸い餅)を開く(割る、切る)という意味らしく
元旦からの神様がいる期間を過ぎた1月11日(関東)に、行う行事らしい。
餅なんてどこにもなかったし、私もそういうのは知らなかったから、
日本人として武道やる以上、来年は本来の要素をどこかに取り入れるべきかもしれない

で、コロナの影響もあって、
本当に藁を切って、形を披露して終わっただけで、会食も無かったから、なんだこれ?ってなった。
というか、普段直接お世話になってない議員さんや市長さんらがぞろぞろ来るのも、なんだこれ?だったし、
流派の紹介もないままに、ただ藁斬りが始まるから、今日は稽古なのか?笑、と思ってしまうくらいだった

よくわかんないけど武道って、神社仏閣に絡んだ行事に合わせてイベントをやらせてもらうことが多いんだと思う
でもよく考えてみると、武道が武士に繋がって武士道精神まで行くところはわかるんだけど、
武士道精神がなんで神社仏閣、神様まで繋がるのか、とても分かりにくい気がする
逆に、武道は武道で神なんかを抜きにして
高等な技術を使って日本刀を高度に操る術者を目指していくことと終点にしてはいけないのか?とも思う

これは神話の一例だけど、もし武道を神社仏閣までつなげたいと思ったら、
少なくとも天皇(神武天皇)まで武道を結びつけないといけないし、天皇と武道をつなぐために、
分かりやすいとこが武士道だけど、それ以前の八百万の神への信仰心をはじめとした
日本人の在り方や気質を外すわけにはいかないと思う
外すわけにはいかないっていうことは、参加者全員が多少なりとも
本来の日本人や大和民族としての在り方や気質を理解している必要があると思うし、
理解していないなら、そう努力するように、道場としても教育すべき体制を
少なくとも作るべきじゃないかとも思う

今回。鏡開きをして、終わってみて思ったのは
これがいったい何の行事だったのか、私にはよくわからなかったこと。
名誉会長の人はともかく、そもそも他議員さんrは来賓として必要だったのか?
鏡餅は無くて良かったのか?
国家斉唱は無くて良かったのか?
各流派の伝統の説明は無くて良かったのか?
1年の始まりなのに、お互いに会食しなくて良かったのか?

来年はプログラムを考え直す必要があるし、
行儀としての在り方を本来の鏡開きに近づけるようにしなくてはならないと思う
自分たち武道家の恰好のために神様を持ち出すのはそれは武士道ではないはず。

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